コラム“内田 暁”

HAMAMATSU WOMEN'S OPEN / COLUMN / 内田 暁

■2021年大会“仕事人”紹介②:大会レフェリー(スーパーバイザー)【後編】■

内田 暁

 今大会の“レフェリー”をつとめる松野えるだ氏は、国際レフェリーの資格を持ち、国際テニス連盟(ITF)公認大会では“スーパーバイザー”として活躍する。
 選手たちから母のように慕われる松野氏へのインタビューの【前編】では、レフェリーの仕事内容について伺った。  
 【後編】では、えるださん(ここでは、選手たちが呼ぶように、あえて「えるださん」と表記せて頂く)がどのようにしてレフェリーになったかを伺い、そのお人柄に迫る。

——えるださんが、テニスに関わられた経緯を教えて頂けますか?

えるだ:わたしは、テニス選手でもなんでもなかったので、特殊だと思います。主人がすごくテニスが好きだったので、趣味で始めました。
 審判としてデビューしたのは、1985年。私の地元の名古屋で、フェデレーションカップが開かれた時でした。それより以前に、主人と一緒に、町の初心者をコーチングできるようなテニスの指導員資格を取っていて、そこに審判の資格もついてきたんです。
 そして名古屋でフェドカップが行なわれた時、「お手伝いできる方はお願いします」ということで、指導員資格を持っている人が全員集められて、そこで初めてラインアンパイアをやりました。
 その後、フェドカップが開かれた名古屋グリーンテニスクラブで、 “ダンロップ・マスターズ”という大会が開催されていたんです。この大会は男女共催で、男子は今でいうATPチャレンジャー、女子は国内大会でした。ジャパンオープンと開催週が続いていたこともあり、すごく良い選手が来てたんですね。ですから私は、「有名な選手が来てるわー」というミーハーな感覚で、ラインアンパイアのお手伝いをしたり、女子の方では主審をやったり。あまり経験もなかったのに、今ほど資格もしっかり決まっていなかった時代ですので、「ルールブック読んでやって」と言われて。わたしも「主審はスコアを言えば良いんだわ」くらいの感じでやっていました(笑)。
 男子では福井烈さんがプレーしている時代だったのですが、福井さんのフットワークを近くで見ると、本当にパパパッと速いんですね。ラインアンパイアをしながらも、選手がボソボソっと話すことも聞こえたりして、楽しいんです。こんなに近くでテニスが見られて、日当まで頂けて!
 これは面白いかもって思って、やりはじめました。

——当時のえるださんはレフェリーではなく、審判だったのですね。

えるだ:はい。その当時はまだ、ITF審判員の資格も各国でバラバラだったのですが、統一しようよとなったのが1990年。愛知県から、わたしも含め6人くらいだったかな?
 東京に受講に行きました。すると会場に「審判に興味がある方は、ここに名前を書いてくださいね」という用紙が置いてあったんです。
 その時にわたしたちが受けた講座が、今でいうレベル1スクール。基本を勉強する会で、その次のステップがホワイトバッジを取るレベル2スクールだったんです。そんなことも知らず、「面白そうね」とみんなで名前を書いて帰ったんです。
 そうしたらしばらくして、「レベル2の講義を日本でやるから、来ませんか」とお誘いがあって。「英語はお話しになる?」と聞かれたので、「いえ、全然です!」と。それまで一度も外国に行ったこともなく、子育てとテニスを土日にやるだけだった、普通の主婦だったんですから。でもせっかく誘ってくださったので、勉強になるかもしれないと思い、受講しました。受けたのは30人くらいで、日本から15人くらい、残り半分が香港や韓国からの方。まだ講習そのものが手探りで、生徒のレベルもばらばら。英語で先生とやり取りできる人もいたんですが、わたしは全然分からない。何度も出てくる言葉をカタカナで書きとって、ホテルに戻って辞書で調べてました(笑)。
 それでも幸運なことに、実技試験ではチェアに乗っていた経験があったので、かっこうにはなっていたかなと思います。アジアに審判を作りたいという時代でしたから、おまけして頂けたのかもしれません。なんとか合格できて、審判のホワイトバッジを取れたんです。ホワイトバッジですと国際大会の線審、あとは予選だと主審ができることもありました。ラインアンパイアとしてオーストラリアオープンにも行きましたし、あとはアジア地区で小さな大会ですと、審判がいないので行くしかない(笑)。
 ちょうど広島でアジア大会が開催されたり、日本の選手がグランドスラムにどんどん出始めた、良い時代でした。とてもラッキーだったと思います。  伊達公子さんが最初に引退する年(1996年)のトヨタレディースでは、わたしが1回戦の主審をしていたんです。確か宮城ナナさんとの試合で、第1セットを伊達さんが落とされたのですが。わたしがチェアの時が、最後の試合にならないでーって思っていました(笑)

——その後、どのようにレフェリーになられたのでしょう?

えるだ:8年くらい審判をやり、その間にアジア大会や福岡開催のユニバシアード、ATPやWTAの大会も経験したので、もう十分かも、審判やめようかなと思っていました。その当時は、審判には日当しか出なかったので、名古屋から東京に行ってホテルに泊まると赤字なんです。それもあって、やめようと思ってたんですね。
 ところが今度は、アジアにレフェリーを増やさなくてはいけないということで、日本からも誰か試験を受けさせようという話がでたんです。ただもともとは、別の方に決まっていたのですが、その方が病気で入院されてしまい、誰か別の人を行かせようということになったんです。
 その頃たまたまわたしは、名古屋で開催された16歳以下の国別対抗戦で、アシスタントレフェリーをしたんです。そこに、ITFの事務局の方もいらして、わたしがレフェリーのスクールに行けるレベルかどうかを、チェックされていたそうなんです。
 そうして大会が終わった時、「レフェリーやる気はない?」と聞かれたので、「主審より良いかも、主審はドキドキするし目も自信がないし」と思ったんです。それに、ぜんぜん適正がないと思われたら声も掛けられない、声を掛けて頂けたということは可能性があるのかなと思い、テストを受けに行きました。  その時に受けた方が全部で6人で、女の人は、わたし一人。先生からは、「英語は勉強するのよ」と言われて、「はい! 十分わかっています!」って(笑)。それでなんとか合格しました。

——そこからは、ずっとレフェリーを務めてきたのですか?

えるだ:はい。レフェリーになったのが1998年で、そこからは審判はやめて、レフェリーに専念しました。あの頃は日本でたくさん大会があったので、本当に選手並みに移動していました。連続で6週大会にいったり、国内とアジアのITF大会だけでも、1年に23~24大会まわりました。選手とも「あ、またですね」って。
 でもレフェリーは交通費や宿泊費、食事もすべて保障してもらえたので、もうちょっとがんばろうと。もうちょっと、もうちょっと……がここまで来てしまいました(笑)。
 本当は、60歳になったらやめて、お家のことをやろうかなーと思ってたんですが、なかなか次の方が現れてくれなくて。わたしがレフェリーになってから、5~6年してからかな。(小林)あおいさんが国際レフェリーの資格を取られたのですが……また、わたし一人になってしまいました(※小林あおいさんは、2020年10月に逝去)。
 ですから、レフェリー希望者大募集中です。今、国内で国際大会のレフェリー有資格者は、わたし一人。どうしましょ、これから。

——失礼ですが、えるださんは今おいくつですか?

えるだ:72歳です。

——え!? ずっとお若いと思っていました。それだけ長くやられていると、選手の成長を見守るようなところもありますか?

えるだ:やっぱりね、ジュニアの大会をやる時にはどちらかというと、教育者のような立場になるんです。選手にルールを教えて、マナーを教えて。「あなた、これは良くない態度だよ。あなたレベルになったら、みんなから憧れられ、尊敬される立場なのだから」と説教もしてきました。
 このレベルの大会ですと、コーチをつけず一人で転戦している女子選手も居ます。立場的にあまり個人的な話はいけないけれど、しょんぼりしていそうな時は「元気にしてる? 大丈夫? 心配事はあるの?」程度の話はしますよね。ときどき、もっと聞いてあげた方が良かったかなと思うこともあるのですが……だから選手が話してくるときは、うんうんうんと、うなずいて聞いているようにします。

——素敵なお話を、ありがとうございます。最後に、えるださんが思うレフェリーというお仕事の魅力を教えてください。

えるだ:そうですね……やっぱり、良く知っている選手がグランドスラムや、テレビ中継される大会で活躍するのを見ると、すっごく嬉しいです。
 そこまでいかない選手でも、リタイアする時、全日本選手権を最後に引退する選手が多いんですね。そういう選手がレフェリー室に挨拶にいらっしゃると、一気に家族のようになってしまって。
 選手の試合をたくさん見ているじゃないですか、身近で。そうなると、この人は負けていても最後まで戦う、がんばりやさんだったなーとか……テニススタイルって、人間性が出ますよね。最後まで投げ出さないで必死にがんばる選手がリタイアする時は、わたしも涙ぐんだりしてしまって。
 一番最後まで、そういう選手たちの試合を見させて頂けるのは、嬉しいことだなと思います。

【了】  

著者

内田 暁
浜松ウイメンズオープンオフィシャルライター|編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)などがある。