「あのボール、返されるなんて信じらんない」
試合から引き揚げてくる敗者が呆れたように言えば、勝者は「ぜんぜん、面に当たってないですよ」と、決まりが悪そうな笑みを浮かべた。
二人が振り返るのは、試合を決した最後のポイント。伊藤が沈めたドロップショットを、快足飛ばし追いつく阿部が、鋭角に切り返しねじ込んだ場面だ。
時間にすれば、僅か数秒の攻防。だがこの一瞬にこそ、2時間30分の熱戦の真髄が、あるいは両者の人となりや足跡までもが、凝縮されているようだった。
伊藤と阿部は、ともに愛知県出身。年齢では4歳の開きはあるが、幼少期には、地元の同じテニスクラブに籍を置いていたこともある。
国際大会での対戦経験はないものの、国内の賞金大会等では昨年だけで3度対戦。手の内は、互いに十分に知る間柄だ。
その伊藤との対戦や相性を、阿部は「やりたい相手ではないが、パワーで圧倒してくる人よりは良いかな」と表現した。戦前に思い描いた策についての問いは「企業秘密です」と笑顔でかわすも、「やるべきことは分かっていた」と言う。伊藤の柔らかなタッチや予測力は、誰もが「天才的」と称する唯一無二の武器。その独特のリズムに引き込まれ、自身のテニスを崩される選手は多い。
ただタイプこそ異なるも、手持ちのカードが豊富なオールラウンダーの阿部は、翻弄されても崩されることはない。相手を前後左右に大きく振り、軌道の高いボールも交え、コートを三次元で捕える両者のテニス観は、高次で噛み合う。その意志のやりとりが見る者をも引きこんでいく、エンターテインメント性溢れる攻防が繰り広げられた。
スコアボードに刻まれる数字も、抜きつ抜かれつ、一進一退。第1セットは阿部が常に先行するも、追い上げる伊藤にゴール直前で追い抜かれた。
「なにやってるんだろ、わたし」
チェンジオーバー時にベンチに戻りながら、そんな自分への叱責が頭をよぎる。ただ同時に、「(セットを)取れそうだったから『もったいない』という気持ちになっているだけで、プレー自体は良い。もっと攻められる」とも思えていたという。
その手応えを推進力に、第2セット以降の阿部は「いつも以上に、フォアで打った」。機先を制して相手を振り回し、伊藤にゲームを作らせない。あるいは伊藤がボールを散らしてきても、巧みにコート上を滑りながら、2バウンドするその瞬間までボールを追った。
第2セットは阿部が奪い返し、もつれ込んだファイナルセット。先にブレークしたのは伊藤だが、いかなる状況でもブレぬ阿部が、躍動的なプレーを安定の心で制し逆転する。
そして迎えた、マッチポイント——。
スルスルと前に出た伊藤が、ボールを捕える直前で手首をひょいと翻し、阿部のバックサイドに柔らかなボレーを落とした。
ただ阿部は、そのコースを読んでいたかのように最短距離でボールに猛進し、スライディングしながらボールと地面の間にラケットを差し込む。
ボールが当たったのは、ラケットの面とフレームの交わる辺り。「あそこに飛んできた時は、そこに返そうと思っていた」という、狙い通りの返球だった。
最後のボレーのコースは、読めていたのか――?
その問いに、「逆をつかれる準備は、ずっとしていた」と阿部は即答する。
「それが、ギリ届く範囲だったというだけです」
そう言い勝者は、軽い笑みをこぼした。