大会運営スタッフたちが働く部屋に、4歳の誕生日(大会当時)を控えた女の子の笑い声と、テケテケと走る小刻みな足音が軽やかに響く。

「ネネちゃん先生に、今日は何を教えてもらったの?」

 幼児にそう尋ねるのは本大会のスタッフで、元プロテニスプレーヤーの久見香奈恵。ベビーカーを押す「ネネちゃん先生」こと松下峯々さんは、大学保育科に通う18歳(大会当時)。2024年大会からの新たな試みである、“ベビー&キッズルーム”でベビーシッターとして活躍する、“先生”だ。

 浜松ウイメンズオープンは、その運営に多くの元女子選手たちが関わっている先鋭的な大会でもある。前述の久見香奈恵も、そして2021年に引退し昨年出産した井上雅も、かつてこの大会にプレーヤーとして参加しダブルス優勝経験もあるアスリートだ。その二人が「母親になっても仕事ができるように」との配慮から、ベビー&キッズルームが誕生した。

 「ネネちゃん先生」こと松下峯々さんとこの大会の繋がりは、浜松という土地が育む人の縁にある。トーナメントディレクターの青山剛と松下家は、数代に及ぶ付き合い。峯々さんの祖母の利恵さんは、「剛さんのお母様もよく存じ上げていますよ」と朗らかに笑った。

 その利恵さんに、青山剛の伴侶の美輝さんが「良かったら、大会でベビーシッターしてくれませんか?」と声を掛けたのがことの始まり。実は利恵さんご自身も、保育士として長く働く、この道の大先輩だ。

峯々さんと祖母利恵さん

「両親ともに、剛さんとは仲が良くて」と語る峯々さんは、その縁もあり、小学6年生の頃にテニスを始めた。ただ「保育士」という夢の始まりは、テニスとの出会いよりも遥かに早かったという。

「わたしが子どもの時の保育園の先生が大好きで。すごく笑顔が素敵で、子ども一人ひとりをしっかり見てくれる先生でした。その先生に憧れてから、一回も変わることなく保育士になる夢があったんです」

 夢への道をまっすぐに歩む峯々さんは、今大会のオファーを受けた時も、喜んで引き受けたという。

 ただ、不安が無かったわけでもない。これまでにも、子どもたちの世話をすることは、大学の実習でも経験がある。ただそれは「保育園で多くの子どもたちを見ることがほとんどで、今回のようなマンツーマンは初めて」だったからだ。今回の大会で峯々さんが担当するのは、3歳11か月の女の子と、11カ月の乳児(当時)。そこで祖母の利恵さんにも、大会前半は会場を訪れてもらった。

 利恵さんの助言も受けつつ、子どもを見る峯々さんが心がけたのは、「一番は、ケガをさせないこと」。そして、子どもたちに多くの選択肢を与え、何が好きか見守ること。そのためにも峯々さんは、自分が幼い頃に見ていた絵本やおもちゃなども、「抜粋してもらって持ってきた」という。

 そんな峯々さんが子どもたちに接する姿を見ながら、利恵さんは「子どもが自分のやりたいことや欲しいことを言うまで、じっと待っている。辛抱強い、良いベビーシッターだと思いますよ」と頬を緩めた。

「子どもの頃からの夢をずっと追っている、あの子は幸せですね」……とも。

子どもも親も「成長できる」場としてのキッズルーム

 「優しいだけではなく、いけないことをやった時には、ちゃんとしかってくれる。それが、ありがたいです」

 大会期間中の一週間、愛娘をあずけた久見は、“ネネちゃん先生”をそう評した。

「親であることと、仕事を両立させたい」と願う久見にとっても、今回は「子どもを連れて、二人だけで泊まりで仕事に行った初めての経験」だった。

 子どもにとって未知の土地を訪れ、初めて会う人たちに接することで、「子どもの成長が感じられる」とも久見は言う。

「娘は『浜松の人たちは優しいね』とも言っていました。こうやって子どもがいても働く道があることを、後進の子たちにも知って欲しい」

 アスリートの先輩として、そうも感じているという。

 その最も身近な後輩である井上も、「母親になっても働く環境があるのは、本当に嬉しい」と言った。

「出産した時は、セカンドキャリアの心配もあったんですが、青山さんたちに『こういう道もあるよ』と言ってもらえたし、ベビーシッティングルームも用意してもらえましたし……」

 大会の心遣いに、そう感謝する井上は、「一対一で見てもらえる安心感が大きい」とも続けた。

「母親も家にこもりがちになるので、働くことで自分も新しい刺激や、人々との繋がりが得られる。そういう場があるのは嬉しいし、元気がもらえました」

 “新米ママ”にとっても子どもを連れて働ける大会会場は、大きな活力の源になったという。

 テニスは、世界的に見れば最も男女同権が実現されている競技であり、大坂なおみに代表されるように、出産を経て最前線で活躍する選手も今や珍しくない。つい先日も、2度のウインブルドン優勝者のペトラ・クビトバ(チェコ)が、妊娠・出産による15カ月の離脱からの復帰を宣言したばかり。

ただ日本ではとなると、既婚の女性選手すら少ないのが現状だ。

 浜松ウイメンズオープンでは、まずは子連れのスタッフが安心して働ける環境への第一歩を踏み出した。そしていずれは、選手も子どもを連れて参戦できる—— そんな大会を目指している。

photo: 長浜功明