エキシビジョンマッチに緊急出場!
浜松から歩み始めたプロへの道
「この後11時45分から、加治遥選手と、阿部宏美選手によるエキシビジョンマッチが行なわれます」
そのアナウンスが流れた時、コートサイドに集った観客から、一斉に「おっ!」という喜びの声や、拍手が沸き起こった。
10 月16日の11時に開始した、加治対山﨑郁美のシングルスの決勝戦。
だが、決勝を戦う山﨑郁美が第2ゲームで足を負傷し棄権したため、試合は開始から15分ほどで終了した。
ケガはスポーツにつきものであり、時に防ぎようのないシビアな側面だ。ただ、この日のためにチケットを購入し、遠方から足を運んだ観客のことを思えば、このまま終わってしまうのはしのびない。
そこで急きょ組まれたのが、冒頭のエキシビジョンマッチである。ウォームアップもそこそこに、ラケット2本だけを手に急いでコートに向かった阿部は、筑波大学の4年生。あらゆる学生タイトルを総なめにし、来春にはプロ転向を決めている22歳だ。
この時から遡ること30分ほどーー決勝戦が始まった頃、阿部は大会トーナメントディレクターの青山剛と、バックヤードで今後について話しをしていた。高校時代から阿部の能力を高く評価し、浜松ウィメンズオープン本戦へのワイルドカードを彼女に出してきたのも、青山である。
大会本部のトランシーバーに、山﨑負傷のアナウンスが飛び込んできたのは、その時だ。
「エキシビションが必要かもしれない。すぐに準備して!」
青山はとっさに、阿部に師事を出す。
「えっ、そんな無茶ぶり⁉」
予期せぬ展開に泡を食いながらも、同時に阿部は、胸の高鳴りも覚えていた。
その僅か10分ほど前――観客の拍手とDJが流す音楽に迎え入れられ、決勝のコートに向かうファイナリストの背を見ながら、「いいな、わたしもコートに立ちたかったな」の思いが込み上げるのを、阿部は感じていたからだ。
浜松に足を運ぶ直前まで、阿部は“全日本大学対抗テニス王座決定試合(以下、王座)”の決勝を戦うため、愛媛県に居た。阿部にとっては、学生として仲間たちと戦う最後の試合。出ないという選択肢はなかった。
ただ王座に出ることは、同時期に3年ぶりに国際大会として開催される、浜松ウィメンズオープンには出られないことを意味する。しかたないと思いながらも、王座の直後に浜松の大会会場を訪れた時、「出たかったな」との思いは禁じ得なかった。決勝戦が始まり、その思いが最高潮に高まった直後だっただけに、不慮の事態によるエキシビジョンではあるが、試合のコートに立てることは、純粋に嬉しかったという。
筑波大学への進学を決めていた、高校3年時の4年前――。夏のインターハイを制し高校テニス界の頂点に立った阿部は、主催者推薦枠で浜松ウィメンズオープンに出場した。そこでも二つの勝利をつかみ、ベスト8へと進出。だが、周囲の高い評価や結果とは裏腹に、本人は将来のプロ転向を否定し続けた。
「私なんて、プロで通用するはずないし……」
コート上の堂々たる姿とは対照的に、細い声でポツリポツリと語る自己評価は、驚くまでに低い。大学1年生にして“王座”を制した時も、その傾向に変わりはなかった。
その彼女がプロ転向を決意したのは今年3月、4年に進学する直前だったという。年始に初の海外遠征に出て、いきなりエジプト開催のITF15,000ドル大会で優勝した。「連戦するのが得意ではない」と感じていた彼女が、約2か月の海外滞在を経て、そのあたりの苦手意識も払拭できた。
それら積み上げた経験と自信の起点には、4年前に出場したこの大会と、常にサポートしてくれた青山氏の存在があるという。
「これまで国際大会や日本の賞金大会に出る時も、常に青山さんたちに色々教えてもらえた。それが無かったら、学生の大会だけ出て、卒業したら普通に引退っていう流れだったと思います。考えを変えるきっかけには、いつも(青山)剛さんの存在があった。青山さんが居なかったら、絶対プロになっていないと思います」
ごく自然な語り口で彼女は言った。
阿部さんがプロになると決めたことが嬉しい……僭越ながらそう伝えると、「ま、色んな人に言われます」と、彼女は顔を少し上に傾けさらりと笑う。
「場違いな感じがして、あまり居心地が良くなかった」と思い返す4年前には見られなかった、柔らかでゆとりある素顔だった。