国際審判員・辻村美和さん
克己心と責任感に導かれ乗った“世界の椅子”
ピンと背筋を伸ばし、際どい判定には「アウト」の声と同時に、スッと右手の指を立てる。その所作はさりげなく、かつ明瞭で、凛とした説得力を放っていた。
審判員の世界では、主審を務めることを良く「椅子に乗る」と表現する。コート上で最も高い位置に座し、コートの全てを見下ろし把握するその地位への、ある種の敬意を込めた言葉だろう。
浜松ウィメンズオープンで主審を務める辻村美和さんは、国際大会でも“椅子に乗る”ことが認められる、国際審判員である。
テニス審判員キャリア20年の辻村さんは、如何にしてこの道を進み、今、チェアの上から何を見ているのか?
多忙な大会中に、時間を割いて頂いた。
――辻村さんのテニスとの関わりを教えてください。
辻村 高校時代に、硬式テニス部でテニスを始めたのがきっかけです。アメリカの大学に行き、卒業後は一度就職したのですが、仕事を辞めて時間を持て余すようになった時に、地元のテニスクラブに行くようになったんです。
そのクラブに、大会審判のお手伝いをしている方が居て、その方から「あなたも審判、やってみたら?」と誘われたのがきっかけでした。ベテランの大先輩だったのでお断りしきれず、「講習会くらいなら行ってもいいかな……」という感じで足を踏み入れました。
――それが、いつ頃のことですかですか?
辻村 多分、声をかけて頂いたのが2000年くらいだと思います。
別に、将来のキャリアとして審判を考えてたいた訳ではなかったんですが、チェアに座って怖い思いするのが嫌だったんです。始めたからには慣れるまでは続けよう、チェアに乗って怖いと思わなくて済むまでやろうと思って続けていました。英語ができたということもあり、他の方よりも障壁が低かったというのもあると思います。
あとは、頼まれると「はい、はい」と引き受けてしまう性格で。それこそ、この大会のスーパーバイザーの松野(えるだ)さんにも、「次はこれをやってみない?」と声を掛けて頂いたりしました。
そのうちに「とりあえずホワイトバッジの試験は行ってちょうだい」みたいに言わたので、2001年に取ったんですね。その後も、国際審判員の資格であるブロンズバッジを目指そうと思ったわけではないけれど、慣れるまでは続けようと思っていました。
すると、続けているものだから、やる気があると勘違いされてしまって(笑)。2004年に、「次のITF審判のスクールに行ってね」と言われた時、スクールというくらいだから、てっきり講習会だと思ったんです。だったら勉強するのに良いなと思って行ったら、実は講習の最終日にブロンズバッジの試験があるというんです! 周囲は、この試験に懸けて来た人たちばかりなのに、私はノートを手に先生のお話を聞くくらいの気持ち。心構えが違うので、当然、その時は落ちました。
そこで2006年に再チャレンジして、ブロンズバッジを取ったんです。
――「怖くなるまでやろう」と仰っていましたが、「怖さ」とは具体的にどういうものでしょう?
辻村 いろいろありますが、怖い思いの最大の原因というのは、自分の未熟さ。大事なポイントでミスジャッジがあれば、当然、選手も怒る。その失敗をできるだけ無くすことでトラブルは減るし、経験を積めば自信もついてくる。選手が求めるようなレベルの審判ができるようになったら、怖い思いもせずに済むのかなと思い、そこまで続けたいと思いました。そうなれるまでは続けようと思ったら、いつまでたってもそこまで行かないので、今もやっているんですが(笑)。
――初めてチェアに乗った国際大会を覚えてらっしゃいますか?
辻村 大阪の世界スーパージュニアでした。私も大阪出身で地元ですし、まずはやってみましょう……みたいな感じで。高校の部活で審判をやったことはあるので、なんとなくアナウンスやスコアは分かるので、それなりにはできるはできたんです。
でも全然しどろもどろだったし、頼りなかったと思うのですが、試合が終わった時に海外の選手の子から「グッドジョブ!」みたいに言われたんです。
それはたぶん、私が英語ができて、意思疎通がストレスなくできたから、そう言ってもらえたのかなと思います。でも私は、それが本当に申し訳なかったんですよね、逆に。何も実力が伴わないのに、そんなこと言われても、「私はあなたの感謝の言葉に値しないのに」と思ったんです。チェアに乗るからには、ちゃんとしなくちゃという気持ち芽生えたのが、その時でした。
――そこから、ジュニア以外の試合でもチェアに乗るようになったんですか?
辻村 はい。初めてのフューチャーズ(男子の国際ツアー下部大会)が、確か2001年。男子の試合で経験を積めば、女子やジュニアの試合も自信を持って裁けると思ったので、上のステージにチャレンジしていました。
いつまでたっても、緊張したりドキドキすることはあったのですが、まずは数をこなして慣れようという気持ちでやっていたと思います。
でも今度は、私が経験を積むためにチェアに乗るという考え方は、違うんじゃないかと思ったんです。プロの選手たちが良く言うのは、「僕たちはこれで生活してるんです、審判の人たちもちゃんと練習してください」ということ。確かにあの時の自分には、「慣れるまで失礼します」というような甘えがあった。自分が主審として上手くなるために志願もしているけれど、「この試合の主審が私ではなくて、もっとベテランの人が乗っていたら、もしかしたら結果も変わっていたのではないか?」ということを思うようになったんです。そこからはまた、もっとシビアに取り組まないといけない、同じ間違いを繰り返してはいけないと強く思うようになりました。
海外にも行くようになってからは、選手と空港で一緒になることも増えてきたんです。そうすると選手が、「あ、審判の方たちも僕らと同じように、海外に遠征に行くんですね」と言ってくれたりして。我々に対する印象が良くなったというか、親近感を覚えてくれたように感じることがありました。顔を覚えてもらえると、コミュニケーションも取りやすくなる部分はあると思います。
――そのような経験を積まれ、大きな舞台でも主審をされるようになりました。日本のテニスファンも、辻村さんを目にした機会は多かったのではと思います。
辻村 そうですね、全日本選手権の女子決勝は、ずいぶん長くさせて頂きました。あとは、大阪や広島で開催されたWTAツアーのジャパンウィメンズオープンでもやっています。東レパンパシフィックオープンは、ブロンズバッジが決勝の椅子に乗ることはないのですが、予選や早いラウンドの試合などはやっています。
――そして今回は、ITF25,000ドルの浜松ウィメンズオープンにも来て頂きました。辻村さんの希望だとうかがいましたが……。
辻村 実は審判やレフェリーもそうなのですが、有資格者はその資格維持するために、こなさないといけないノルマや試合数があるんです。審判のブロンズバッチは、年間で40試合、主審をすることが推奨されているんです。もちろんコロナ禍のような止むを得ない事情の時はその限りではないですが、基本的にはそれが出来ないと、まずは警告。あまりにそれが続くと、資格失効ということになるんです。
今年の私はチェアに乗った試合数が足りなかったので、「やらせてください!」とお願いして、今回は来させて頂きました(笑)。
――そういう意味では、審判員の方たちにとっても、今年から日本で国際大会が開催されたのはありがたかったのですね?
辻村 そうなんです。 (スーパーバイザーの)松野さんに、「ちょっとこういう事情なので、上(椅子)に乗せてください!」とあらかじめお話しさせて頂きました。私は浜松に入ってくるのは少し遅れたのですが、そのあたりも松野さんには考慮して頂いて……お陰さまで、今年のノルマもなんとかこなせそうです!
◆ ◆ ◆ ◆
「最近は、あまりチェアに乗る機会が少なかったので」
苦笑いを浮かべつつ、辻野さんは、ノルマがこなせそうなことに安堵している様子だった。
ただここで、もう一つの疑問が残る。
経験豊富な辻村さんが、なぜ最近は、あまり主審をできなかったのか――?
その理由は、辻村さんがここ数年、主としてやり始めた “ELCレビューオフィシャル”なる役職にあるという。
この耳慣れない、“ELCレビューオフィシャル”の正体とは――⁉
後編に続く。