浜松大会は彼女にとり、長く、ジレンマのトーナメントだったという。
 地元の名古屋に近いこともあり、ホーム感を覚える地なのは間違いない。
「集客もすごいし、イベントもたくさんある素敵な大会」だとも、常々感じていた。
 ただ10月のこの時期は、シーズン終盤ということもあり、ケガを抱えていることも多い。活躍を望む想いは人一倍強いが、なかなか結果につながらない——そのようなもどかしさが、この大会には宿っていた。

 今季限りの引退を表明した井上雅は、今年、最後の浜松ウィメンズオープンに挑む。幸か不幸か、コロナ禍により出場大会数も例年より少なかったため、疲労の蓄積はそこまでではない。
 何より今年は、「この大会のために準備できた」。
 「この1か月間、最初の方はきついトレーニングをして、そこからテニスを調整してきました」
 落ち着きはらった声のトーンに、静かな自信がにじんでいた。

 引退を表明した9月以降、井上のもとには友人やファンから、「寂しい」「まだいけるのに」など、多くの言葉が届いたという。本人にしてみれば、引退は以前から心に決めていたことだったため、表明した時点では、特別な感傷はなかった。だが寄せられるメッセージを目にすると、「私のことを見てくれた方がこんなにいたんだな」と、温かさが胸に広がる。
 同時に思ったのは、「見に来て下さるファンのためにも、絶対にケガはできない」ということ。井上にとって残された大会は、浜松ウィメンズオープンと全日本選手権の二つ。ただ観客が会場に足を運び応援できる場となると、この浜松が最後だ。それだけに、万全の状態で挑みたいとの責任感は、何にも増して大きかった。

 その“有観客”最後の大会に、井上はいつもと変わらぬ気持ちで向かえているという。
 「戦うとなれば、いつもと同じモードになる。いつもがんばっていたわけだし、今回もがんばることには変わりはないので」
 それが、プロとしての矜持でもあるだろう。

 それでも初戦の直前には、極度の緊張に襲われた。試合前に覚える神経の高ぶりは、いつものこと。ただ今回の緊張の源泉は、「見に来てくださった方たちのためにも、良いプレーをしたい」という、外界との関係性の中にあった。
 1回戦の立ち上がりは、その硬さを振り払えなかったと試合後に振り返る。もっとも試合が進むにつれ、ネット上スレスレを越えて相手コートに刺さるショットで、打ち合いを支配した。
 自分のパフォーマンスに満足はしてないものの、「初戦にしては、次につなげられるプレーができたかなと思います」という好スタート。

 ファンとの絆を感じ、次につなげるプレーの先で、ジレンマの地は、掛け替えのない思い出の地になる。