2022年大会注目選手①
清水綾乃:度重なる痛みを越え、2018年女王の帰還

「引退したら、何をしたいか分からない方が多いって言いますよね。でもわたしは、やりたことだらけなんです」

 目じりを下げて穏やかに笑う彼女は、未来の夢を、朗らかに語りはじめた。「前から薬剤師になりたいと思っていたし、物を作るのが好きなので設計士に興味があるし、料理もやるのでカフェにも興味があるし……」
 果たしてそれらが、どれほどまでに現実味を帯びる未来像かは、分からない。ただ、「大学に行けるように勉強はしていた」と彼女は言った。
 2018年の浜松ウィメンズオープン単優勝者にして、同年の全日本選手権覇者。将来を嘱望された清水綾乃にとって、今大会は、実に1年4か月ぶりの“復帰戦”である。

 2021年6月のポルトガル遠征を最後にコートを離れた清水だが、彼女が最初に右肘に痛みを覚えたのは、それよりさらに1年以上遡った日のことだった。

 痛みの理由は、肘の神経の内側に出来たガングリオン。

 テニスプレーヤーの生命線とも言える肘に、メスを入れることを恐れぬ選手はいないだろう。ただ当時は新型コロナ感染拡大により、世界中のテニスツアーが停止した時期でもあった。

 やるなら今との思いもあり、ガングリオンと傷んだ神経の除去手術に踏み切る。それが、今から2年半近く前のことである。

 術後の経過は順調に見え、公式戦のコートに戻ったのが2021年2月。ところが復帰してほどなくして、再び肘が痛み出した。ただ複数の医師の診断を受けても、理由が分からない。レントゲンを撮っても、MRIを撮っても、モノクロの画像に異常を示す影は映っていなかった。以前に痛めたケガは、完治しているという。医師からは「何も問題はないから、テニスを続けても大丈夫」だと言われた。
 その言葉を信じたというより、むしろ「どうせ痛いなら同じこと」という小さな反発心から、コートに立ちもした。ただ結局は、痛みでラケットを振れない日も少なくない。

 原因が判然としない中で、自身の肉体的感覚と、他者の理解が乖離していくのも感じていた。「自分でも、痛いと思い込んでいるから痛いのだろうかと思ったし、痛いと言っても、どれくらい痛いか人には伝わらない。周りの目にどう映ったかは分からないけれど、『本当はできるんじゃないか』と思われていたかもしれないし……。このまま復帰する気がないと思われていたとしても、仕方ないなと思っていました」
 戻れないのかな……との思いがこみ上げたことも、当然あったと彼女は言う。その日をどこかで覚悟し、ありえる未来を思い描くようになったのもこの頃だ。それでも肘に負担をかけない範囲で、できるトレーニングは欠かさずやったという。

「引退するとなったとき、やれることは全てやったと思えるようにしよう」

 それが、いかなる状況にある時にも通底していた思いだった。

 転機は、さらなる困難の仮面をかぶって訪れる。手の小指から薬指にかけて、日常生活にも支障をきたすほどのしびれを覚えるようになったのだ。
 不幸中の幸いは、このときは原因が明瞭だったこと。尺骨神経が骨の圧迫を受けているからであり、抜本的解決のためには、手術しかないと言われた。「骨の後ろを通っている神経を、前方移行する手術をすればしびれは取れると言われたので、その手術をすることにしました。寝る前などは特にしびれがひどかったので、他に選択肢はなかったんです」

 真の不幸中の幸いが訪れたのは、実際に手術を受けた時。

「それで肘を切って開いたら、骨の周りに石灰が溜まっていたことが分かったんです。それが痛みの原因じゃないかということで、先生が取り除いてくれたんです」

 施行した医師にしても、それで痛みが消えるかどうかの確信はない。清水にしてみれば、願う他にできることもない。

 まず手のしびれは、麻酔が切れた直後から、消えていることが実感できた。
 肘の痛み関しては、外傷による痛みは当然、しばらく残る。そのなかでリハビリを重ね、外傷が癒えるに従い、痛みが和らいでいることを日に日に感じることができた。

 手術から約5か月経った現在では、「ストロークは、全然、大丈夫」というまでに快復。まだサーブでは痛みも残るが、自身にゴーサインを出せるまでになった。

 今大会ではプロテクトンキングは使わず、予選からの参戦。その試合前日には、「胃が痛く、吐き気が止まらないくらいに緊張した」と苦笑いする。復帰戦は「緊張しすぎて手も足も動かなかった」が、それでもスコア的には快勝。

 終わってみれば、3試合で7ゲームしか落とさぬ貫録の連勝で、本戦の切符を勝ち取った。

 もっとも本人に言わせれば、「試合勘がヤバイ」状態。「わたしがこれまでやってきたテニスでは、例えば試合中にフォアにボールが来たとしたら、選択肢が5つくらい出てくるんです。クロスで深く返す、ダウンザラインに打つ、ロブを打つ、浅く返すなどがあり、その中から1つに絞る感じなんです。でも今は、選択肢が1つしか出てこない!」

 別の選択肢があることに気付くのは、ボールを打った後のこと。「あ、こういう選択もあったじゃん」とも思うが、次の瞬間にはまたボールが飛んできて、すると開いたはずの選択肢の扉は、パタパタと閉じてしまう。「なので試合を続けるうちに、『あ、こっちもあったな』と気付き、それを重ねていくうちに選択肢が増えていくかなと。でも今は、見えている選択肢でがんばるしかないです!」

 言葉だけを抜きだせば、それは辛い現実に読めるかもしれない。ただ彼女は、そのプロセスを楽しむかのように、声と表情に明るい色を灯した。 今大会の一番の目標は、「痛みがなく、大会をちゃんと戦いきること」。「そのなかで、勝ちがついてきたら、なお良いな」

 苦難を乗り越えた4年前の優勝者が、思い出の地で、笑顔の再スタートを切った。