全英ベスト4進出の青山修子・柴原瑛菜ペア。

浜松ウイメンズオープンで、2013年の単複優勝を含み、3度のシングルス優勝と2度のダブルス優勝を誇る青山修子。低い姿勢から放つフラットな打球は、浜名湖名物の強風を切り裂き相手の足元を滑る。風をも味方につけるその姿は、人呼んで『浜名湖の女王』。『風の使い手』との声もある。

青山がシングルスで頂点に立った2015年、日本でのデビュー戦を浜松で戦ったのが、米国カリフォルニア州生まれの柴原瑛菜だ。当時はまだ高校生で、アメリカ国籍。大学進学か、プロ転向か。米国籍か、日本国籍か……? 様々な進路と選択肢の間で揺れていた彼女にとって、浜松の地は、プロを、そして日本を選ぶ一つの転機となっただろう。

年齢では10歳、生まれ育った地は約9000㎞の隔たりがありながらも、いずれも浜松とゆかりの深い青山と柴原。そんな二人の足跡は、今重なりあい、“テニスの聖地”ウィンブルドンでベスト4まで至った。

以下の記事は、ベスト8の試合時にLINEニュースに掲載したものを一部加筆したものです。


センターコートとナンバー1コートは100%の観客を入れるなど、コロナ禍以前の賑わいが戻りつつある、ウィンブルドンの大会7日目。ナンバー3コートに組まれた女子ダブルスの準々決勝、青山修子/柴原瑛菜vsハラデツカ/ボウズコバの一戦にも、客席から拍手と声援が選手たちに送られる。その中でひときわ、大きな声で日本人ペアを応援する、イギリス人ご夫婦と思われる方たちの姿があった。

試合は、第1セットを日本人ペアが取り、第2セットに入ると一進一退の攻防となる。終盤に向け白熱する展開に同調し、ご夫婦の応援も一層の熱を帯びた。その声が力になったか、日本ペアは6度目のマッチポイントで勝利をつかむ。最後は、「チャンスを逃しても落ち込まず、どんどんやっていこうと思っていた」という柴原の、会心のボレーが熱戦に終止符を打った。

試合後にスタジアムの外に出ると、件のご夫婦と遭遇した。「日本人ペアを応援していましたよね?」そう声を掛けると、「ええ。特にエナ(柴原)を応援していたの!」と、ご婦人の明るい笑みが返ってくる。「2年前にエナがヨークシャーの大会に出た時、彼女は私たちの家に滞在していたの。それから、ずっと彼女の動向は追っていた。今回ウィンブルドンに出るというから、電車に飛び乗って来たのよ!」

海外の下部大会では、地元の方が選手をホームステイ先として受け入れることも珍しくない。このご夫婦も、そのように選手をサポートしたご家族だった。あの時は、まだランキングも低かったのにね……と、ご主人も目を細めて回想する。今は引っ越し、ロンドンから90㎞ほど離れたハンプシャーに住んでいるというマストン夫妻。そのお二人に「準決勝も来ますか?」と尋ねると、「もちろんよ。決勝だって来るわよ!」と、一層明るい声が返ってきた。

マストン家に滞在し、ヨークシャーの下部大会に出ていた当時の柴原は、ダブルスランキング200位台のプロ1年生。
それから、2年。
“イギリスのご両親”とも言うべき人々の声援も背に、第5シードの柴原たちは、“テニスの聖地”で頂点を目指す。

試合後に青山・柴原ペアの写真を撮るマストン夫妻(右)

柴原瑛菜(しばはら・えな)

1998年2月12日米国カリフォルニア州生まれ。二人の兄と共にテニスを始め、8歳の頃にはUSTA(USテニス協会)の支援を受けるまでに頭角を現す。2016年全米Jr.ダブルス優勝。2019年夏より日本国籍の下でツアーを転戦。


青山修子(あおやま・しゅうこ)

1987年12月19日東京都町田市生まれ。早稲田大学卒業後にプロ転向。主にダブルスで活躍し、2013年ウインブルドンベスト4、ツアー優勝は9回を誇る。浜松ウイメンズオープン 2013 2015 2016 単優勝。浜松ウイメンズオープンのレジェンドプレイヤー。


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